2008/02/19
今、大江健三郎の本を読んでいる。何故、大江健三郎かというと、去年、帰国した際に英語の上達法をA嬢に聞いたところ、「文学本を読みなさい」との教授を頂いたのだ。「易しい本ではなく、大江健三郎のような本がいい」とのことだったので、図書館で借りてきた。個人的には大江健三郎作品は、重い石が胃に乗っているような読後感を受けるので日本語でも読み進むスピードが遅い。なら英語だとどうなるのだろうかと。そんな訳で意気地なく、図書館にあった大江健三郎作品の中では、一番、字が大きくて行間が空いている本を選んできた。チキンめ。
一番最初のページの詩に既にやられる。
"There have been men who loved the future like a mistress"
かつて自分も未来を愛人かのように愛していた気がする(wifeじゃなくmistressなところがミソ)。今や、頭の中はRRSP(Registered Retirement Savings Plan カナダの個人年金積立プラン)とか年金の心配だ。日本人の平均寿命を考えると人生もまだ前半なのに、既にこの体たらく。なんと言うか、自分の精神的treadmillを指摘された気がして、ちょっと落ち込む。
更に読み進める。重くなさげな本を選んだせいか、今のところ、胃に石は乗っていない。むしろ、英語の分、難解な言い回しもなくシンプル化されてかえって読みやすい気もする程だ。いや、軽快な感じすらする。しかしまだまだ前半の前半。問題はこの本を図書館の返却期日までに読み終えるかだ。英語だと読む速度が一気に落ちることに落ち込み、さらに本から遠ざかるとまた速度が落ちるので、本当は読み出したら継続して数日中に読み終えてしまう方がいいのだが、雑多なことに追われ、そういう訳にもいかず。リズムをつかむと英語で読むのは苦痛でなくなるのだが、一度、本を閉じてしまうとそのリズムをつかむまでにまた数分かかったりなどして、その数分の内に本には集中できないと読む気が失せてしまったりするのだ。
でも思った以上に面白い。問題は時間の工面だ。仕事のパソコン疲れのあと読書は目に厳しいしなあ。と、ちっとも読み進んでいないのだが、日本人作家の作品を英語で読むのは情景が浮かびやすく入りやすいのでいいかもしれない。
図書館で大江の英語表記がわからず、困った。結局、Kenzaburouで検索してもらったのだが。Kenzaburo Oeとなっていた。ちなみに筆者が最初に思った綴りはKenzaburou Ohe。カナダ暮らしも長くなってきたのに、いまだに日常的な英語の罠がいつも口を開けて待っているのには感心するなあ(←と言ってる場合か)。ついでにその落とし穴にすっぱりはまりすぎて既に反省の心もなくなってきた。もっと英語の勉強が必要なのは言うまでもないのだが、問題は英語そのものより、人間としての性根か?と思い始めた今日この頃。

